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浦和地方裁判所 昭和55年(ワ)820号 判決

原告

太田精次

被告

相田孝信

右訴訟代理人

平沼高明

外二名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一  当事者双方の求める裁判

原告は「被告は原告に対し、金八二万円及びこれに対する昭和五五年八月一七日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」旨の判決並びに仮執行の宣言を求め、被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求めた。

二  原告の請求原因

1  原告は昭和五二年八月一〇日午前一〇時ころ歯科医師を営む被告に対し、原告の61(右上奥から三番目)欠損か所に義歯を入れる治療を頼み、一部その治療を受けた。〈以下、事実省略〉

理由

一原告請求原因1の事実(被告の治療行為)は当事者間に争いがない。

二被告の過失の有無及び正当な業務行為について

(一)  説明義務について

被告が原告に対し挿し歯の治療開始前に治療方法を説明しなかつたことは当事者間に争いがない。

患者が歯科医師に対し欠損した61(右上奥から三番目の歯)に義歯を入れることを頼んだ場合、その義歯が挿し歯であるかブリッジであるかは重大な関心事であり、その後の管理の点からすればできればブリッジにしたいとの希望があることは当然考えられることであるから、ブリッジにすべき両側の支台歯の状態がブリッジによるに耐えない状態である場合その点を患者に説明し、ブリッジによることはできない旨述べ、それに代わる次善の方法として、挿し歯の方法があること、そのためとるべき治療の概要などを説明した後に治療を開始すべき業務上の注意義務がある。しかし、右注意義務は、患者の言語態度からみて、明らかにブリッジによる義歯を望んでいないことが認められる場合には免除され、歯科医師がその点の説明をしないで、直ちに挿し歯の方法による治療を始めたとしても、その注意義務違反に問われることはないものというべきである。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

原告は昭和五二年二月三日歯科医師被告を訪れ被告に対し、61の歯の治療を頼み、診療の結果、抜歯することとなり、即時に抜歯した。右抜歯後歯肉のおさまりを待つてその欠損部分に義歯を入れることとし、そのころ、次回の診療予定日を同年八月一〇日と定めた。原告は、健康保険ではブリッジを入れることができないと考えており(後に紛争を生じた後調査の結果ブリッジでも健康保険で入れられることを知つた。)、高額となると聞いていたため、同年八月一〇日に被告に対し、「健康保険で入れられる安い義歯を入れて欲しい。」旨述べ、あえてブリッジを入れてくれとはいわなかつた。被告は診察の結果欠損歯の両側の歯は相当進んだ歯槽膿漏で支台歯としては耐えられずブリッジとすることは困難であると診断したが、原告から前記のようにいわれ、原告としてはブリッジにすることは期待していないことがその言語態度からわかつた。そのため、被告は原告に対しその説明をせず、最も適当と思われた挿し歯を入れるための治療を始めた。原告がブリッジの治療を希望することは、昭和五三年一月ころ紛争解決の話合いの中で初めて述べたことである。

以上のとおり認められ、右事実によると、被告はその開始前に挿し歯の治療をすることについて原告に説明しその了解をえていないけれども、原告としてはもともとブリッジにすることを期待していないことが言語態度により明らかであつたといえるから、被告は、その説明義務を免除されたものということができ、その説明をしないで挿し歯の治療を始めたことには何ら過失がないものといわざるをえない。

(二)  健全な歯を削つた過失の有無と正当な業務行為について

(1)  被告が挿し歯の治療開始につき事前にその治療方法の説明をしなかつたことは過失といえないこと前記のとおりである以上、その正当な治療方法に包含される健全歯の削り取りもまた正当な治療行為として是認されるから、事前に患者である原告の承諾を求めなかつたとしても何ら過失があるとはいえない。ところで、〈証拠〉を総合すると次の事実が認められる。

被告は原告の欠損歯のところに挿し歯を入れる治療行為として、挿し歯の両端のバネを両側の歯に乗せその沈下を防ぐためレスト(出つぱり)部分が高くならないようにする目的で両側の歯の琺瑯質の一部を僅かに削つた。右の方法は保険法による診療として認められ、そのことによつて両側の歯にそれほどの悪影響を及ぼすものではない。

以上のとおり認められ、右事実によると、被告が事前に原告から両側の歯の一部琺瑯質部分につき僅かに削ることは、本来歯科治療の正当な業務行為に属し、その承諾は、原告が被告に対し義歯を入れる治療のため必要な行為をすることを頼んだ包括的な意思表示の中に当然包含されていないものといえるから、さらに個別的に右の承諾を要するものではない。したがつて、被告の右行為はその違法性がないものである。

(2)  被告が歯石除去の際前歯四本の歯牙部分を相当削りとつた旨の原告主張事実を認めることのできる証拠がないばかりでなく、〈証拠〉を総合すると、被告は義歯を入れる歯型をきれいにとるため、まず、全部の歯についている歯石を、ソノスケーラーと称する歯石とり器械を使用して除去したこと、右器械によつては通常健全な歯牙部分を削り取ることは困難であること、前歯も歯石を取つたため従前より歯石部分だけ細くなり一見削られたように見えたことが認められる。したがつて、被告は何ら原告の前歯四本を削り取つたことがないものというべきである。したがつて、この点についての原告主張は失当である。

(三)  歯肉部出血、歯齦部挫傷の過失の有無と正当な業務行為について歯科医が義歯を入れるための歯型をとるとき、歯石をとるときには或程度歯齦部や歯肉部に傷がつき僅かな出血をすることが免れないものであるから、その限度では正当な医療行為の範囲に属し、何ら歯科医師はその責任を負うものではなく、そのような通常の程度以上に出血した場合にだけその責任を負うのにすぎない。本件において、被告の治療行為により通常の程度を越える傷害を受けた旨の原告主張事実(ことに三か月の通院治療を要する傷害を負つたとの主張事実)について検討する。右主張に沿うものとして、原告本人尋問の結果から成立が認められる甲第一号証の一(証明書)があるが、その内容の「昭和五二年八月一〇日初診、経過良好にて昭和五二年一二月六日にて治癒」との記載は、同じ医師の診断書である甲第一号証の二(診断書)の記載と全く異なり、甲第一号証の二の方が傷害に接着した時点での診断書で真実性があると認められることからみて、右甲第一号証の一は信用できず、原告本人尋問の結果によつても治療三か月の傷害を受けたとは述べていないのであり、他に右原告主張事実を認めることのできる的確な証拠はない。かえつて、〈証拠〉を総合すると、原告が昭和五二年八月一〇日志木中央病院の診断を受けたところ、歯齦部挫傷、舌下部血腫により二日間の加療を要する旨診断されたことが認められる。

そこで、右傷害の原因についてみるに、〈証拠〉を総合すると次の事実が認められる。

被告が原告の歯石をソノスケーラーで除去するにあたり、歯肉下の歯石(最も歯槽膿漏の原因となり易い)を取る際歯肉を僅かに傷つけたため、一、二か所から出血し、また、右下部の歯型をとる際型を正しくとるためトレーに印象材を入れこれを両側から二本の指で強く圧接したため、トレーを外に出したところ右下歯齦部から血がにじみ出るように出血し周囲が挫傷状態になつた(被告は、舌下部に血腫のできるような治療行為をしていないと思つている。)が、いずれの出血も微量で、うがいをするだけで数分後に止血したために傷の手当をしなかつた。この程度の傷は、右治療で通常生ずるが、特に生活に支障はなく、自然に二、三日で治癒するものであつた(原告について一週間後に見たときは治癒していた。)。

以上のとおり認められる。右事実によると、原告の前記傷害のうち舌下部血腫は被告の治療行為によるかどうかは不明であり、右認定の原告の傷害は被告の歯科治療として正当な業務行為の範囲に属し、その違法性を欠くものということができる。この点の原告主張は失当である。

(四)  以上のとおりであるから、被告には原告主張のような医療上の過失が存在しないか、または、正当な業務行為としてその違法性が阻却されるものである。〈以下、省略〉 (高木積夫)

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